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2011-08-15

「核はつくらず、使わず。原発はなくさなければ」が心からの思い

中学3 年で日本の原爆開発に関わった有賀究さん

 福島県石川町は、東京電力福島第一原子力発電所(福島原発)から南西へ60キロ離れた、希元素(レアアース)が採れる阿武隈山系きげんそあぶくまに位置します。アジア太平洋戦争末期にはウラン鉱産地として注目され、陸軍航空本部主導で、東京の理化学研究所が原子爆弾(原爆)の開発も行っていました。当時、石川中学校(現学法石川高校)の3年生で、学徒動員でウラン鉱山の通称石川山で採掘作業をした、有賀究さんに当時の様子と、戦争、原爆、そして原発についての思いを語ってもらいました。

目的分からず、ただ掘り続け

 私は、昭和20年(1945年)4月から、ウラン鉱採掘に学徒動員され、石川山に約10キロの道のりを歩いて通った。旧制中学校は5年制で、4、5年生は関東方面へ動員されていた。2年生だった3月末、先生から石川山に行くんだと言われた。目的は分からなかったが、家から通えるからよかった、と内心思った。
 30キロほど北の郡山市が4月12日に初めて爆撃を受けたが、その時は石川山にいた。米軍のB29爆撃機が頭上を飛んで、石川中学校も爆撃を受けた。幸い、死傷者は出なかったが、今までB29が来ることなどなかったから、大きなショックだった。
 石川山で朝8時から夕方4時まで、“月月火水木金金”と休みなく働いた。山の斜面をツルハシで崩して、岩を砕き、近くの石置き場までモッコ(縄などでマス目に編んだ運搬道具)を棒につるして、2人で運ぶ。
 私たち生徒は、わらじなどはだし同然で働き、足を切ったこともあった。放射能が出るところで、はだし同然で石を掘っていた。今思えばぞっとする。
 目的も分からず、ただ炎天下、腹を減らしながら、言われた場所を掘って、石を運んでいた。
 作業中に、キャラメルを1箱くらいもらったことがある。当時、甘いものは貴重だったので嬉しくてね。今でも、同級生が集まると必ず、キャラメルの話が出る。
 5月のある日に東京の参謀本部から、えらい将校が来て、「君たちが掘っている石は、マッチ箱一つで米国の大都市を破壊できるのだから、一生懸命掘れ」と激励された。
 その時は、「お国のためだ。一生懸命やらなければ」と思った。他の人も同じだったと思う。それまで、先輩で戦死した人もいたし、お国のためにやらなければと思った。
 当時はそういう教育だったし、日本全体が決戦に向けて頑張らなければという風潮で、当然やらなければいけないと思っていた。 8月6日の広島原爆投下では、後になって新聞を見て、「自分の掘っている石と同じものでつくったのかな」と思った。

疑問を持つ、考える能力が必要

 8月15日、石川山に行こうとしたら、同級生が戻ってきて、天皇陛下の話があるから、帰って聞こうということになった。
 そして敗戦。
 「勝つ」と言われてきたから、負けるなどとは思いもしなかった。原発は安全だと言われ続けてきたことと全く同じだ。
 戦前、あんなに勝つ、勝つといわれて、それを信じていたが、多感な中学3年の時に負けてしまった。だから、私は“お上”の言うことは素直に聞かない、疑ってかかる体質になった。私だけではなく、多くの人が国に不信感を持った。
 国の政策で行われた、原爆開発。その研究の一端に参加させられたのは、日本では石川の私たちだけだろう。
 石川でも、若い人はここで原爆がつくられようとしていたのは知らないので、事実を知って欲しい思いから、自分が関わった原爆開発の話を残し、後世に伝えようと資料を集めている。 そのことで、核兵器をつくらない、使わせないという人類の願いに役立ちたい。 終戦後20年経った頃、同級生に「負けてどう思ったか」のアンケートをとった。回答は「ホッとした」が多かった。石川山まで毎日歩いて、雨が降らなければ休みはなし、勉強はしない。疲労困憊こんぱいの状況だったので。
 それから、負けないと信じていたから「悔しい」も同じくらい多かった。「大変な体験だが生かされた」と書いた人もいた。マイナスな体験だけれど、4カ月だけだったからいい思い出のようになっている。原爆がつくられていたら、めちゃくちゃになっていたはずなのだが……。
 福島県の原発のある地域は貧しかった。昭和30年代に原発が出来て、交付金も入り立派な建物が出来たし、仕事場が出来てみんな働きに行き、収入も増えた。だから、原発さまさまで悪口は言わない。どうなっても文句は言わないという人も多い。
 福島原発3号機のプルサーマル導入には反対して、署名活動などをしたが、佐藤雄平知事は地元の議員たちの陳情もあり、政府が安全だろうと言ったから、OKを出した。「お金が必要だから」と地元に言われるとOKせざるを得ない。
 戦争や原発について事実をきちんと学ぶことが、大人も子どもも必要で、疑う、疑問を持つ能力、考える力を養うことも大切だ。 学力競争ばかりではなく、連帯して人間を大切にする教育も必要。
 戦時中に召集令状が来ると、やむを得ず出征していった。内心は様々な思いがあっても、表面上は喜んで行かなければいけなかった。そういうのは、全て教育の問題だと思う。
 これからの社会、本当のことを言い、本当のことをする人を大切にしていかなければいけないのではないか。




戦況挽回しようと原爆開発目指したが
石川町立歴史民俗資料館 橋本悦雄さんに聞く

 石川町立歴史民俗資料館には、約300点の原爆開発計画の資料や写真が展示されています。これを集めた橋本悦雄さん(町史編纂専門委員)に話を聞きました。
 「日本でもウラン爆弾を開発しようと、昭和16年頃から陸軍航空本部の指示で理化学研究所(理研)が研究したが、当時は日本でも出来ないのだから米国でも無理だろうと、本格的研究には入らなかった。本格的に研究を始めたのは、昭和19年にサイパン島が陥ちて、お日本本土も空襲の範囲に入ってから。戦況を挽回する秘密兵器をつくろうと考え、石川町に白羽の矢が刺さった。ウラン鉱を掘ったが、標本程度しかなかったと見られる。
 理研は昭和20年4月13日の大空襲で6割方の施設が破壊され、一部の工場が石川町に疎開し、原爆開発の研究が進められた。海外からのウランでイエローケーキ(原爆製造用の濃度の高いウラン精鉱)がつくられたが、6月に開発は挫折した。当時の日本の工業力では、当然原爆は出来ない。マンハッタン計画と日本の原爆計画はとてつもなく差がある。
 研究は中止になったが、陸軍は戦略物質としての希元素が欲しくて、中学生たちを使って、採掘を続けた。
 陸軍の山本洋一将校が、資料館にある写真や文書などを残した。普通なら、敗戦時に焼却されるが、保存していたことで貴重な事実が伝えられている。
 原子力は最初は兵器として使われ、平和利用として原発に使われ、経済の発展に貢献した。でも、一歩間違えば取り返しのつかない悲惨さを招く、両刃の剣なのだというのが率直な感想だ。
 今回の事故で、原発はもう福島に置かないでくれというのは、みんなの気持ち。それに替わるエネルギーを政府に本気になって考えて欲しい」
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category総合  time2011-10-03 14:39