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生協の委託業務で 「全組合員経営」

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なんでも地域で助けあってきた

岡元さんは鹿児島市の西隣に位置する日置郡吹上町の山奥で生まれた。

父親は農家だが、消防団長。にぎやかなのが好きで、何かというと、人を寄せてはお酒を飲み交わす。とくに出初め式の後は、みんなを家に呼び、母親がつくったそばを食べ、お酒を飲んで楽しむのが恒例だった。

見合い結婚で出てきたのは、千葉県船橋市。ここで長女が生まれたが、病院も公園も至る所にあり、生協の班で子育ても楽しくできた。

ところが、10年ほどして埼玉県比企郡嵐山町に家を建て、引っ越すと、ポツンポツンと家が建っているだけで、回りには何もない。文房具店を探すのにも一苦労した。

ここで、9歳離れた長男が生まれた。そこで、生協をつくりたいと思い、家が建つたびに、子どもがいそうな家かどうかをみて、訪ねていった。

自宅を共同購入のステーションにした。1週間に1回の仕分け作業は、子育て談義の場となった。困ったときは相談しあい、どこかへ出かけるときは「いいよ、みててあげるよ」と、お互いに子どもを預けあう関係ができた。料理教室をしたり、クリスマスのケーキをみんな作ったりと、「おいしいものを一緒につくるたまり場」にもなった。

岡元さんは、地域の班ごとに選出される商品検討委員にもなり、地元の零細業者を訪ね、こういう食品を作ってほしいと頼み、試作品を検査することもした。
「子育ても、食品づくりも、地域で助け合い協力しあっていくのが生協だ」
岡元さんはそう思っていた。

「一人ひとりが主体者」 仲間5人で労協センター事業団へ

子育てが一段落したとき、職場でも自分たちの力を発揮したいと考えた。しかしそこは、地域のように自分たちの思いをストレートにぶつけられるところだとはとても考えられなかった。そんなとき、近くに生協の共同購入物流センターができた。1987年のことだ。
共同購入の各班への商品の仕分けと配送を行う施設だが、ここの業務の一部を労協センター事業団が受け持つことになった。

商品を棚からとって、コンベアを流れてくる箱に詰める作業は生協パートの人たち。その棚に補充していくのが労協組合員の仕事だった。(棚を境に、補充する側は、作業空間全体が冷蔵庫のようになっている)
応募する側は、そんな区別など知る由もない。岡元さんたちも、生協のパートだと思って、地域の生協組合員仲間5人で応募した。岡元さんは、面接の際にこんな注文もつけた。
「せっかく5人で来たので、働けるのなら5人一緒にしてください。落とすのならみんな落としてください」

30人の枠に200人ほどの応募があったが、岡元さんたちは採用された。


生協現場の写真

労協では“雇う・雇われる関係”はない、短時間就労でも、パートという“部分人間”のような働き方ではなく、組合員となり、主体者として働く、というような話を聞いて、「ここなら、自分たちの意見もとりいれられるのでは」という期待を抱いた。よい仕事をし、よい地域をつくる“協同組合間提携”の事業、という説明に共感する部分もあった。
しかし、心は生協で、生協あっての労協だった。
まず問題になったのは、同じ食堂で昼食をとるのに、生協パートの人たちは生協の補助があり200円なのに、事業団は500円。
「え~っ!おかしいじゃない!私たちにも300円の補助金をつけてよ。どうしてつけられないの」
労協センター事業団は“文句をいう対象”としての存在だった。

「理想か現実か」ではなく「自分たちでやるかどうか」が問われる

こうした状況を変えていったのは、一つには、労協らしい現場運営と会議の積み重ねがある。
2週間に1回、事業所委員を中心に職場会議が開かれ、全団員集会も月1回は開かれた。仕事の改善についてもみんなが考えられるようにと、“冷蔵庫”の中での作業、お米など重たいものを積む作業など15種類の仕事を2カ月間に全員が体験した。
会議では、労協とは、労協の働き方とは、ということが繰り返し話された。“パートで働くのに、なんで会議なんて必要なのか”という人もいたが、ここで働く意義を絶えず問い返し、一人ひとりが働き方を文章にしたこともあった。

「働く人たちが主人公になる」という言葉から、生協職員としての働き方との違いが少しずつ理解されていった。
決定的だったのは、センター事業団本部スタッフと何でも言い合える関係ができたことだ。
40代前後で、同世代ということもあったが、事業所委員のメンバーと永戸祐三専務(当時)とは、会議の後、いつも呑みながらの“延長戦”に入った。
先鋒は“横ちゃん”こと、横倉しず代さん(その後、介護分野で先進を開く)。

「15人でやる仕事を9人でやるような極限的な状況。あなたはそういう現実を知らないでしょ」
「現実か理想か、ではないの。自分たちでやろう!という軌道に立つかどうかだ」

「私なんか、余った時間を使って家庭を守るためにパートに出ているだけだもの」
「どうしてもっと本物になろうとしないの。『本当にこれをやりたい』といえば、夫も子どもも『がんばれ』といってくれるのでは」

「ただでさえ人が足りないのに、今度、小学校に入学する子をかかえた人には、送り迎えの時間を保障しなければならない。どうしてくれるの」
「そういういい方はあまりにもさびしすぎる。みんなでささやかでも入学のお祝いをしよう、という話がまずあって、送り迎えのときの仕事の段取りはどうしようか、という話になるのが当たり前でしょ」

このとき岡元さんは、自分たちの現実を訴える横倉さんの話に「その通り」と思いながらも、永戸さんの話にも「それはそうだな」と、引き込まれるものを感じていたという

「冷凍・冷蔵庫の仕事で、ふだんでも人が足りない中で休みがでる。残った人にふりかかる。だから文句を言った。だけど、永戸さんにいわれて、ああ、そうだなというのもあった」

岡元さんは、新しく入った人が子育てのことで休まなければならないとき、前からいる人には「子どもが小さいうちはしょうがないよ。そこはさ、みんなでなんとかがんばろうよ」と説得し、新人には「大丈夫。みんな、こうやってやりきってきたんだから心配しないで」と励ました。小さな子をかかえた人が休む時にあった、「まったくう!」という非難の言葉はなくなっていった。

責任を持つのは大変だけど、働く喜びが違う

92年からは金銭に関わる実務もみんなが分担してやるようになった。このことが主体者意識を一段と高めた。

終礼時には、お互いに確認しながら、自分はどういう仕事で何時間働いたかを作業日報に書き込む。それを月ごとに班長がまとめ、会計担当が全体の表をつくる。これを契約書にある設定時間と比べると、どのセクションにどのくらいオーバー時間があるかは一目瞭然となる。作業日報ではまた、各部署の作業の流れも把握できたので、問題点と原因の究明がしやすくなり、無駄な投下労働もなくせるようになった。

この結果、みんなが自分たちの部署の効率を気にするようになり、15人体制から17人体制にして「穴埋め」をうまくやれるようにする、早出をなくす、などの改善策を生み出し、原価率を下げ、わずかだが賃上げも実現することができた。

「一人ひとりが主体者、社長だとかいっても、委託金額がいくらかなんて知ろうともしなかった。委託金額がこれだけで、自分たちの時給はいくらで、給料は全体でこれだけで、出てった経費がこれだけで、と見えるようになったときの、みんなのすごい変化。そこらへんから、すっごい意識が変わっていった。それに、自分たちでシフトも組み立てるようになったら、働く喜びが違う。責任を持つ働き方をするというのは、大変だけど、気持ちよかったんだよね。気持ちよくみんなが一生懸命働く」

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