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「たたかう東北」に全国から支援

□物資支援
第4陣では介護福祉士派遣、稲の苗
ささえあい生協(新潟高齢協)─仙台・宮古へ


<道路に漁船が打ち上げられていた>
 ささえあい生協(新潟高齢協)は、第1陣(3月18、19日)として米や衣類、ガソリンなどの物資と全国の高齢協から送られてきた約 箱の救援物資を90「緊急車両」で岩手に。第2陣は23、24日に宮城、岩手に。 仙台では、訪問介護の利用者宅でガスが使えず食事を作れない、ガソリン不足で車が使えず訪問が困難だと聞き、岩手県宮古市では、悲惨な被災状況に呆然(写真)。  岩手高齢協の上野理事長からは、たまたま休みをとっていた生活相談員のAさんが波にさらわれて亡くなったと聞きました。高齢協の理事で、まだ40代でした。また、11人の方が家を流されたそうです。
 ご自身の会社が津波で壊滅した上野理事長ですが、逆境に負けるどころか、震災復興では高齢協の仕事おこしが試される、これは天命だ、と新しい高齢協へ踏み出そうと意欲満々。自力で稲作にチャレンジしたいので「新潟から苗を譲ってほしい」と懇願され、知り合いの農家に協力を要請。期待に応えたいと思います。
 1、2陣とも、ささえあい生協の八幡事務局長が往復1100キロを一人で運転、そのタフさにみんな驚きました。 4月2日には、第3陣が木炭数俵や衣類、燃料などを届けました。11日からは、ささえあい生協の介護福祉士ら5人が、新潟経由で合流する福岡高齢協のスタッフとともに、3日〜1週間以上現地へ入り、自宅の後片付け、介護職員の応援へと駆けつけます。
(専務理事 高見優)

□物資支援
満載物資に、ガソリン切れ、渋滞も
いたみ企業組合─石巻へ


<東京経由で石巻に出発した>

<津波で破壊された町>
 いたみ企業組合・NPO法人いたみワーカーズコープが出した緊急援助物資・義援金の通達に応えてくれた仲間が100人を超え、17日には、天井まで品物が積み重なり、理事長室も品物置き場に。支援物資整理の最中に、田中康夫衆議院議員が夫婦で事務所を訪問。南相馬市(原発事故で物資が届かない場所)へのガソリン供給支援について協力しあうことを確認。 高木誠司、新孝一あたらしの2人が、3日間東北に赴くことになり、18日正午には、東京の労協連本部に向け出発。
 以下2人の話。
 10時間後、東京へ着いたが暗い。店にも明かりがなく違う都市に来たみたいでした。連合会本部で歓迎され、物資を更に山積みして石巻に向け出発。が、油がない。ガソリンの品切れとスタンド渋滞に東北まで行けるのか不安でした。福島県に入ると、高速道の段差が多く、民家の倒壊も目に入る。福島原発に向かう放水車や自衛隊の車、さらに物資搬送、タンクローリー、各支援団体等が共に被災現地へ向かう。「緊急車両証明書」は、全てに最優先でした。
 19日昼過ぎ、石巻市に到着。現地の労協メンバーとセンター事業団関西事業本部と待ち合わせ石巻の事業所へ。道には津波にあった車が折り重なり、そのままで散乱。あちこちで、水を求めて家族がポリタンクを運んだり、自宅の家具一式の清掃っをしている光景が見えました。自衛隊、警察、消防等、緊急車両の行き交う姿はありましたが、支援をしている姿はなく、古い戦後写真のようでした。
 緊急物資を届け終わり、田中康夫さんと約束した仙台へひた走り。車に積んだガソリン専用携行缶100ℓを満タンにするため、ガソリンスタンドで満タンにしては携行缶に移し替え、(小分けしないと、被災地で分けるのが大変なので)深夜まで高速を何度も往復し、手渡しました。
 第2便では10個のランドセルや子ども用文具を運びます。
 「がんばろう東北!がんばれ日本!」
(高木哲次)

□現地支援
役場が「次は仕事おこしを」
センター・北海道─野田村へ


<スコップで掘り起こし片付ける>
 センター事業団北海道事業本部は3月27日に、島田修二、松本賢二、林俊彦が、野田村へ支援物資を運び、29日まで瓦礫撤去がれきなどを手伝いました。
 野田村に入ると、左側に半壊の家。「ひどいな」と思い、正面を向いたら、景色が何もない。町が消えていました。線路は折れ曲がり、切り株と倒壊した木が広がり、現実感がなく言葉が出ませんでした。「とにかく行動を」と、津波から免れ奇跡のように残っていた組合員の金城さん宅で、いくらか物資を下ろし、残りは野田村役場に下ろしました。
 村役場の係長さんが「笑顔でがんばりましょう」と来た人に声をかけていて、被災地の人が力をだそうとしている、支援する側が落ち込む暇はないと、力が出ました。しかし、人手が不足しています。泥の中に人が下敷きになっているそうですし、灯油の盗難やガソリンの抜き取り、略奪もあるそうです。片付けの時に、「遺体が出るかもしれない。覚悟して」と言われました。 最終日は写真屋さんの瓦礫と泥を撤去。高校生が泥を撤去、奥さんと妹さんが家財道具を黙々と片付けています。ご主人は、「住宅より高い写真器材がダメになった」と話し、帰省中だった妹さんの大学生の息子がお母さんを捜しに自宅にもどり、津波に飲み込まれ、遺体で発見されたと話してくれました。
 〝相田みつを〟に「語らざれば憂いなきに似たり」という詩があります。憂いがないのでも、悲しみがないのでもありません。語らないだけなのです。語れないほど、重い悲しみだからです。
 盛岡中央事業所の三船さんが、帰りに役場を訪ねたら、「ワーカーズコープさんのボランティアはもういいので、仕事おこしをしてほしい」と言われたとのことです。 復興に向けて仮設住宅などの建設が始まりますが、大切なのは、孤立しない住民による支え合いの仕事づくりです。人々と未来を支え合う協同労働の仕事を早急に作りあげなければと思いながら、帰路につきました。
(松本賢二、島田修二)

□義援金
利用者が、寛永通宝も
宅幼老所みなせ(労協ながの)


<私たちも募金しました。「手ぇ貸すで」>
 宅幼老所みなせは、長野市鬼無里にあり、きなさスタッフは4人、利用者は高齢者 人、幼児はいません。
 長野でも地震があり、被災が他人事でない、何かをしたいと思い、市の鬼無里支所が支援物資を募集するのを聞き、トイレットペーパーや紙おむつ、タオルなどを提供。
 小さな募金箱も作りました。「始めに誰かがお種銭を入れないと、たねせん次が入らないね」と、冗談を言っていた利用者さんが、しばらくしてビンとビニール袋に入ったたくさんの小銭を持参されました。あまりにも多かったので両替に行くと、銀行から「これは使えない」と返された古いお金が。見ると、5銭・10銭に混じり、寛永通宝銭も。9000円に。家のものをかき集めてくれたのだと、気持ちが温かくなりました。
 長野で被災地の人たちを受け入れていますが、仕事が必要になった時は、ここで受け入れようと話しました。
 土地の言葉で、エールをおくります。
 〝おらほうで出来る事はちーっとばっかだけど、いっくらでも手ぇ貸すで、何でもせっておくらい!〟
(塚田美智子)
time2011-04-21 11:17